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このところ ふと 思うことに
信仰も 熱心すぎると
人は むしろ 冷たくなっていく傾向が あるという ことです。
これは
ある 牧師様も そのように語って おられました。
また
沖縄のラジオでの キリスト教放送で
へりくだった高慢 の ことを 語っておられて
苦笑しながら 聞いていました。
私も、このことを
以前から 感じており
謙遜を装った傲慢 と 題する書き込みを したことがあったので
なにか、とても 共感 してしまいました。
洗礼をうけ、長きの年月が 経過しますと、
大抵は、この状況に 知らずのうちに陥りますから、要注意 です。
そして、
信仰熱心さは 何か 偏向してしまい
互いに愛し合うというより、
むしろ
自己中心的になっていく傾向があり、
人に、無関心に なります。
それは、
何にも影響されないという勘違いが そうさせて しまいますし、
神様にだけ つながっていれば それでいいと 曲解してしまいますよね。
信仰によって、愛が 芽生えれば、
脱落しそうな者が いる時 そこに 目を留めるべきなのに、
良きサマリア人の たとえの、
まるで 悪いほうの祭司まがいに なってしまいますよね。
私はずっと前、
聖書の中に
あなたは正しすぎてはいけない と いう箇所があって、
当時
そのことを理解できずに
聖書には なんと ひどいことが 書いてあるのだろうと、
勘違いしたことがあります。
世の人の格言にも
過ぎたるは及ばざるが如し などというものがあり、
何事もすぎると 良くない結果になるという
警鐘の意味合いの格言も ありますよね。
なにか支離滅裂になりましたが、
信仰の道にも、相通ずるものが あると思います。
要は
信仰と行いのように、バランスが大切なんですよね。
バランス もしくは 調和 これがあってこそ、
信仰生活は、順調に行くのだと 思ったりも 致します。
もし 順調でなくとも、このことが判ると、
平安が保てますし、相手に やさしくなれますよね。
ふと、
そのような事を思いました。
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