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イースター礼拝説教

 投稿者:ヨハネの洋チャン☆(*^_^*)☆  投稿日:2009年 4月13日(月)13時26分45秒
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  MACF礼拝説教(イースター礼拝)

2009.4.12

「十字架と復活」

ルカによる福音書24章13節〜35節



英語の「イースター」の語源は、古代神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」
に由来していると言われています。寒さ厳しい冬に眠っていた生命が、春の
訪れとともに目を覚まし、新しい生命が芽生えます。新生といのちの繁栄を
お祝いするお祭りを下敷きにして、キリストの復活と新生を祝うイースター
が一般化してきました。
キリストの復活を祝う祭りは初期の頃からあったのですが、イースターとい
う名前を使っての祝祭日は、クリスマス同様、異教的な色彩を取り入れ、後
付された祭りです。今の祝祭日に落ち着いたのは5世紀頃だと言われています。
シンボルの卵は新生、ウサギは多産による「いのちの喜び」「いのちの尊さ」
を象徴しています。それらをキリスト教が活用した形になっています。
私達のお祝いの中心軸は「十字架と復活」です。まさにこれは「春を連想さ
せる死と再生」そっくりです。

1)十字架の出来事

24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナ
ザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも
力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため
引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをか
けていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になりま
す。

弟子たちにとって、イエス様の十字架は全く予測していない出来事でした。
弟子たちとっては逃げ出したくなるような出来事でもありました。イエス様
を売り渡したユダにとってさえも、十字架での処刑というのは考えられない
ほどの出来事でした。彼らは、イエス様が政治的に、宗教的に改革を行って
くださると信じていたようなのです。ですから、彼らにとっては十字架の出
来事は全く迷惑な話としか感じられなかったのだろうと思います。

十字架までの過程も、めちゃくちゃな無理強いがそのまま通ってしまってい
るような感じがして、まるで、イエス様が公然と負けたようにさえ感じてし
まうほどです。宗教指導者たちの煽動、群衆の大騒ぎによるバラバの釈放、
無罪を訴えていながら、最終的には手を洗って自己責任を放棄し、ユダヤ人
の騒動を恐れて死刑の判決を出してしまうポンテオ・ピラトの裁判。イエス
様が一喝すれば、そのまま状況がひっくり返るだろうと思えるような場面が
続きますが、イエス様は淡々と十字架への道を進んでいきます。

弟子たちには十字架の意味など「敗北」としか映ってなかっただろうと思い
ます。
ペトロは、ペンテコステの日に聖霊を受けて、十字架の意味を理解しますが、
十字架に明確な解説をつけたのは、パウロです。
パウロによれば、人間の罪と神様への敵意がイエス様を十字架につけたのだ
と教えています。
イエス様は政治的な王ではなく、宗教組織の理事長としてでもなく、人間の
悪意と罪を全部その身に受け取って、十字架の上で、それを神様によって清
算するためにこそ、来てくださった「しもべなる救い主」であり、十字架の
苦難を受けるためにこそ来られた主なのです。イエス様は人間全体の罪、そ
のものとなって十字架にさらしものとされ、神の裁きの対象になられたので
す。

2)イエスは生きている

24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは
朝早く墓へ行きましたが、 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、
天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおり
で、あの方は見当たりませんでした。」

イエス様が死なれたのは、敗北ではないようだと弟子たちは気づき始めてい
ますが、まだしっかりは理解できていません。イエス様は人間に殺され、死
に対しては何の力もなかったと考えるのが普通なのかもしれません。つまり
「イエス様も所詮人間なのだ。死んだら終わりだ。死には決して勝てないの
だ」と彼らは考えていたのでしょう。だからこそ、悲嘆に暮れていたのです。
しかし、パウロによれば、イエス様の「死」は、人の悪意による敗北ではな
く、むしろ悪魔からの攻撃のすべてと、神からのすべての人間の罪への裁き
をすべて引き受けてくださったものなのだというのです。
そして、イエス様の「死の意味深さ」と「死による関係修復の完了」を「復
活」によって実証したのだと教えています。死んだままでは、死に支配され
ているということになり、罪の報酬としての死からの救いなど提供できない
ことになります。また死んだままだったら本当にその死が神との関係修復の
ために有効だったのかどうかもわかりません。ですから、死からの勝利と、
神が満足したということの証として、イエス様がよみがえったのだというの
が中心的な思想です。それが使徒たちやパウロの理解する復活の意味でした。

また、イエス様の復活というのは、単なる肉体の蘇生というのとは違います。
死んで止まっていた心臓がまた動き始めたというのとは違うのです。
パウロによれば、死を通過した後、それぞれに「朽ちない体」「栄光の体」
を着ることこそ、死の先にまっている希望であり、それはイエス様の復活に
よって確実なものになったのだと理解されています。肉体が死んで朽ち果て
ても、その存在はなくなりません。消滅してしまうという発想は聖書にはあ
りません。
イエス様による、「新生」が教えられており、それは復活の出来事によって、
力強く証しされているのです。
ハイデルベルクの信仰問答の第一は、「生きる時も死ぬ時も、あなたの唯一
の慰めはなんですか」です。そして答は
「わたしの身も魂も、生きている時も死ぬ時も、わたしのものではなく、わ
たしの救い主イエス・キリストのものであるということです。主はその尊き
御血潮をもってわたしの一切の罪のために完全に支払ってくださり、わたし
を悪魔のすべての力から救い出し、また今も守ってくださいます」

イエス様は見えませんが生きていて、神様と私達の関係を今日も修復するこ
とができ、悪魔の力から救い出し、罪の裁きを連想させる死の怖れから解放
してくださいます。
復活のもっている重要な意味は、死に象徴される悪魔の力をキリストが粉砕
したということと、神からの裁きをキリストが完全に担い切ってくださった
という点にあります。 死が命を生み出したのです。私達の死をイエス様が
担い、通過してくださったので、私たちが死ぬとき、イエス様のもっている
復活のいのちにすっぽりと包まれるのです。

3)閉ざされた目、開かれた目、燃える心

二人の弟子が悩みを抱え、恐れを抱き、暗い心でエマオに向かって歩いてい
ると、ひとりの人に出会います。ふたりには、それがイエス様だとはわかり
ません。目が閉ざされていたと記録されています。彼らの心は悩みと怖れで
いっぱいになっていたのでしょう。イエス様がそこにいても、そんなことに
は気づかず、イエス様の言葉もあまりふたりの心に入っていかないようでし
た。目が閉ざされていたというのは、別のもので目も心もいっぱいだったの
です。不安、恐れ、困惑でいっぱいだったのです。
ところが、イエス様が聖書全体からご自身のことを語り、十字架の必然性を
語る中で、ふたりはだんだん引き込まれていきました。
そして夕食の時、パンを裂き、祈り、それを配っているのを見たとき、彼ら
の目が開け、イエス様だとわかるのです。が、それがわかるとすぐにイエス
様はそこから姿を消しました。しかし、生き生きと聖書を教えたイエス様の
存在はしっかり心に印象付けられます。彼らはまさに、聖書を聞きながら、
イエス様に出会い、復活のイエス様に出会ったのです。それは私たちへの大
切な参考資料です。
私たちも聖書の言葉を通してイエス様に出会い、聖餐の出来事のなかで十字
架と復活の意味を考えながら、イエス様に出会うのです。
しかし、このイエス様は、死んで墓があるイエスキリストではなく、それぞ
れの心に生きておられる、栄光のからだをもって永遠に生きておられるキリ
ストです。

彼らと同様に、私たちも聖書の言葉からイエス様の十字架と復活のメッセー
ジを「自分とのかかわりで発見する」なら、心が燃えると思います。それら
の事々が、あなたのため、あなたを生かし、祝福するためであったとわかっ
たとき、おそらく言葉で表現しにくいほどの「感動や感謝」が湧き上がるこ
とでしょう。これは弟子たちの喜び、そしてイースターの喜びに通じます。

祝福がありますように


  関根一夫 牧師
 
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